I
静かなる時空の扉
小久保英一郎
トーマス・ルフの作品には、独特の静謐さが漂っている。人のいない部屋とその家具「Interieurs」(室内)、曇天の空の下の建物「Häuser」(ハウス)、人々の引き伸ばされた肖像「Porträts」(ポートレート)、あるいは夜間に微光暗視装置を使って撮られた緑階調の作品群「Nächte」(夜)。
それらが並列する展示室を歩いていると、各々の写真が文脈から切り離されて立ち現れてくるのが不思議だった。これから何かが始まるのか、それとも何かが終わったあとなのか。写真はこちらの想像力に向かって静かに時空を開いているようだ。ルフの作品の魅力はこういうところにあるのかもしれない。
ルフのまなざしが宇宙に向けられるのは、もちろん僕にとって面白い。特に「cassini」(カッシーニ)のシリーズ。1997年に打ち上げられた探査機カッシーニは、7年の旅をしたのち2004年に土星周回軌道に入った。初めてカッシーニの撮った土星の写真を見た時の衝撃を、僕は忘れられない。地球から10億 km以上離れた天体の、現在の生の姿。かつてない解像度で捉えられた土星は、息をのむほどに美しかった。特にルフも使っている土星の環のクローズアップ。環は数 cmから数 mほどの無数の氷の粒子でできているのだが、なぜあのような縞模様ができるのかは未だに解明されていない。カッシーニの撮った写真は、NASAのウェブサイトで誰でも見られるようになっていて、僕もその更新を心待ちにしているひとりだ。
科学的にカッシーニの写真を見てきた人間にとって、人工的に色をつけるなど加工されたルフの土星はいささか奇妙にも見える。しかし、その違和感がかえって興味をそそる部分もある。この作品群はもともとルフが個人的な楽しみのために創作していたものであるという。どうしてこのように土星をデザインしようと思ったのだろう、ルフは土星に何を見ていたのか。
小久保英一郎(こくぼ・えいいちろう)
国立天文台理論研究部教授。博士(学術)。専門は惑星系形成論。理論とシミュレーションを駆使して惑星系形成の素過程を明らかにし、多様な惑星系の起源を描き出すことを目指す。趣味はスクーバダイビング、文化財(特に古代遺跡・ 寺社・祭)探訪など。主な著書に「一億個の地球」「宇宙と生命の起源」「宇宙の地図」がある。
国立天文台理論研究部教授。博士(学術)。専門は惑星系形成論。理論とシミュレーションを駆使して惑星系形成の素過程を明らかにし、多様な惑星系の起源を描き出すことを目指す。趣味はスクーバダイビング、文化財(特に古代遺跡・ 寺社・祭)探訪など。主な著書に「一億個の地球」「宇宙と生命の起源」「宇宙の地図」がある。