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スケールが介在すること
青木淳
展覧会に行って、シリーズごとの、その写真の大きさに、なるほどと思うことしきり。こればかりは、実際に行ってみないとわからない。写真は、その大きさによって意味が変わる。もちろんそれは、最初のコーナーに展示されている、証明写真を大きく引き伸ばしたようなあの「Portraits(ポートレート)」シリーズの、まさにテーマでもある。が、そのシリーズだけでない。展示の最初から最後の最後まで、写真の大きさとその内容の相互作用に、はぐらかされ、誘導され、驚かされる連続だった。
いちばん大きい写真は、ミース・ファン・デル・ローエの建築を撮った「l.m.v.d.r.」シリーズのなかの、バルセロナ・パヴィリオンの作品だったろうか。そこから掌に乗るほどに小さな「Nächte(夜)」シリーズまでの落差があって、その間に、たとえば、精巧な科学写真の趣に溢れた「cassini(カッシーニ)」シリーズが挟まるという具合。写真だけが展示されているのに、シリーズごとのそれぞれの大きさとそこに写されている内容の距離に、ぼくは建築を感じたのだった。
いちばん大きい写真は、ミース・ファン・デル・ローエの建築を撮った「l.m.v.d.r.」シリーズのなかの、バルセロナ・パヴィリオンの作品だったろうか。そこから掌に乗るほどに小さな「Nächte(夜)」シリーズまでの落差があって、その間に、たとえば、精巧な科学写真の趣に溢れた「cassini(カッシーニ)」シリーズが挟まるという具合。写真だけが展示されているのに、シリーズごとのそれぞれの大きさとそこに写されている内容の距離に、ぼくは建築を感じたのだった。
建築と言えば、ぼくがトーマス・ルフを知ったのは、雑誌に載った、彼がヘルツォーク&ド・ムーロンの「ゲーツ・コレクション近代美術ギャラリー」を撮った写真だったろう。
正面からとらえた、水平垂直が出た建物の、前に生えているはずの木が消えている。冷たい昼間の建物の、開口の向こう側に見える室内に、夜の暖かい光が灯っている。補正と合成とで、実際にはありえない姿の建物が、画面上につくり出されている。実際の建物を「正確に」写しとった写真ではない。設計した建築家の意図を「純粋に」表した写真でもない。写された建物からも、そこに込められた意図からも自由な、独立した作品としての写真がそこにあった。
20世紀以降、建築は、実際に建っている建築そのものによってではなく、そのイメージによって流通することになった。実際の建築を見る人の数より、建築写真を通して、その建築を知る人の方がずっと多いのである。その事実の何歩か先に、ルフのこの写真はある。
今回、数点、展示されている「Häuser(ハウス)」シリーズも、デュッセルドルフ近郊のありふれた建物が、建築写真の流儀で撮られた作品だ。その流儀のなかでも特に連想させるのが、ワルター・グロピウスによる竣工1926年のデッサウのバウハウス校舎の写真。建築が持つさまざまな側面のなかから「構成」だけを抽出して、それを強調するよう撮られた写真である。その流儀がどうしても伝えてしまう構成感と、写された建物の内容の落差が、「Häuser(ハウス)」シリーズにはある。
正面からとらえた、水平垂直が出た建物の、前に生えているはずの木が消えている。冷たい昼間の建物の、開口の向こう側に見える室内に、夜の暖かい光が灯っている。補正と合成とで、実際にはありえない姿の建物が、画面上につくり出されている。実際の建物を「正確に」写しとった写真ではない。設計した建築家の意図を「純粋に」表した写真でもない。写された建物からも、そこに込められた意図からも自由な、独立した作品としての写真がそこにあった。
20世紀以降、建築は、実際に建っている建築そのものによってではなく、そのイメージによって流通することになった。実際の建築を見る人の数より、建築写真を通して、その建築を知る人の方がずっと多いのである。その事実の何歩か先に、ルフのこの写真はある。
今回、数点、展示されている「Häuser(ハウス)」シリーズも、デュッセルドルフ近郊のありふれた建物が、建築写真の流儀で撮られた作品だ。その流儀のなかでも特に連想させるのが、ワルター・グロピウスによる竣工1926年のデッサウのバウハウス校舎の写真。建築が持つさまざまな側面のなかから「構成」だけを抽出して、それを強調するよう撮られた写真である。その流儀がどうしても伝えてしまう構成感と、写された建物の内容の落差が、「Häuser(ハウス)」シリーズにはある。
だけれども、その写真の大きさを、ぼくは知らなかった。たとえば、「Haus Nr. 12 Ⅱ」は、183 x 287cm。その大きさで写された建物の正面は、たとえば窓から見えるだろう実際の景色の見え方よりは、少しばかり大きく、だからと言って、その世界のなかに没入してしまうまでには大きくなく、ぎりぎり客観的なところから「写真」を見ていられる立ち位置が与えられる、そんな絶妙な大きさなのだった。
建築にはプロポーションの美というものがある。バランス、あるいは張り巡らされた幾何学的秩序と言ってもいい。このプロポーションはしかし、スケールを持たない。大きくても小さくても変わらない。つまり、ぼくたちの身体を経由してない。頭のなかにある。
その一方で大きさの美というものがある。同じ形、同じプロポーションでも、天を突くように高く大きく、威圧、圧倒されることがある。こじんまりとしたスケールに和むことがある。大きさの感覚は訪れ、その場を体験しないとわからない。身体がなければわからない。
そして建築のおもしろさ(のひとつ)は、そのプロポーションと大きさの相互作用、というか距離にある。そう、それと同じことを、ぼくは、ルフの「l.m.v.d.r.」シリーズや「Häuser(ハウス)」シリーズに感じたのだった。
帰って、昔見たはずの「ゲーツ・コレクション近代美術ギャラリー」の、もともとの大きさを調べてみた。190 x 300cm。なるほど、「Haus Nr. 12 Ⅱ」と構図も大きさも、ほぼ同じだったのだった。
建築にはプロポーションの美というものがある。バランス、あるいは張り巡らされた幾何学的秩序と言ってもいい。このプロポーションはしかし、スケールを持たない。大きくても小さくても変わらない。つまり、ぼくたちの身体を経由してない。頭のなかにある。
その一方で大きさの美というものがある。同じ形、同じプロポーションでも、天を突くように高く大きく、威圧、圧倒されることがある。こじんまりとしたスケールに和むことがある。大きさの感覚は訪れ、その場を体験しないとわからない。身体がなければわからない。
そして建築のおもしろさ(のひとつ)は、そのプロポーションと大きさの相互作用、というか距離にある。そう、それと同じことを、ぼくは、ルフの「l.m.v.d.r.」シリーズや「Häuser(ハウス)」シリーズに感じたのだった。
帰って、昔見たはずの「ゲーツ・コレクション近代美術ギャラリー」の、もともとの大きさを調べてみた。190 x 300cm。なるほど、「Haus Nr. 12 Ⅱ」と構図も大きさも、ほぼ同じだったのだった。
青木淳(あおき・じゅん)
建築家。1956年横浜市生まれ。82年東京大学大学院修士課程修了。83年〜90年磯崎新アトリエに勤務後、91年に青木淳建築計画事務所を設立。個人住宅をはじめ、公共建築から商業建築まで、多方面で活躍。2004年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。代表作に「馬見原橋」、「潟博物館」、「ルイ・ヴィトン表参道」、「青森県立美術館」、「大宮前体育館」、「三次市民ホールきりり」等。著書「JUN AOKI COMPLETE WORKS 1:1991-2004」「同第2巻:Aomori Museum of Art」、「同第3巻:2005-2014」、「原っぱと遊園地」、「原っぱと遊園地2」「青木淳 ノートブック」他。
建築家。1956年横浜市生まれ。82年東京大学大学院修士課程修了。83年〜90年磯崎新アトリエに勤務後、91年に青木淳建築計画事務所を設立。個人住宅をはじめ、公共建築から商業建築まで、多方面で活躍。2004年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。代表作に「馬見原橋」、「潟博物館」、「ルイ・ヴィトン表参道」、「青森県立美術館」、「大宮前体育館」、「三次市民ホールきりり」等。著書「JUN AOKI COMPLETE WORKS 1:1991-2004」「同第2巻:Aomori Museum of Art」、「同第3巻:2005-2014」、「原っぱと遊園地」、「原っぱと遊園地2」「青木淳 ノートブック」他。