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写真の死を超えて
浅田彰
トーマス・ルフは(銀塩)写真の死を冷徹に意識している写真家、いやメディア・アーティストである。
ロラン・バルトの言うように、写真とは「それがあった( Ça-a-été)」ということの光化学的痕跡であるとすれば、現在のディジタル画像は最初から0と1の集積でしかなく、コンピュータによっていかようにも変換することができる。そこには、たんなるアナログ写真からディジタル写真への変化というだけではない、ほとんど写真の死ともいうべき断層が横たわっているのだ。
ベッヒャー夫妻の下で写真を学び、いかにも写真らしい写真から出発したルフも、1980年代末にはすでにコンピュータによる画像処理を導入し、やがては処理する画像も自分の撮った写真にこだわらなくなる。天文台やアメリカ航空宇宙局(NASA)のデータ、あるいは新聞写真、さらにはインターネットから拾ったポルノグラフィックな映像までが、コンピュータ上で自在に処理され、写真ではない何ものかとして出力される。
注目すべきは、そこでルフがいかにも写真らしい見かけにこだわっていないことだ。「jpeg」シリーズでは圧縮されてブロック・ノイズの生じた醜悪な画像が平然と提示される――インターネットを飛び交うディジタル画像の典型であるかのように。他方、土星探査機のデータによる「カッシーニ」や火星探査機のデータによる「ma.r.s.」は美しいには違いないのだが、そこに加えられた色彩はルフの恣意的選択によるものでしかない。(その点、グザヴィエ・バラルが選択・編集した同じ火星のデータを巨大なLEDディスプレーに出力して見せる高谷史郎の作品[2014年の Kyotographie で展示された]は、はるかに必然性が高く、はるかに美しい。)それらが無造作に並列される展覧会場は、もはや写真家であることをやめたルフのつくりだす写真の死体置き場なのである。
こうしたポスト写真的なアプローチは、写真史の原点にまで及ぶ。たとえば、杉本博司はウィリアム・フォックス・タルボット(という広く流布された名をわざわざトルボットに直す必要があるとは私は思わない)の原版に眠っていた、これまで見えていなかったイメージを、最新の技術によって甦らせてみせた。対してルフは、赤褐色がかった鶏卵紙プリントをコンピュータの画像処理によって青みがかったサイアノタイプ風のネガに反転させ、いわば捏造されたサイアノタイプとして麗々しく展示してみせる。あるいは、感光紙の上に直接オブジェを置いて露光したモホイ=ナジらのフォトグラムが、光化学的痕跡としての単数性を特徴とするのに対し、ルフがコンピュータの画像処理によってつくりだす巨大な「フォトグラム」は、やはり捏造されたフォトグラムというべきものなのでる。
いかにも写真らしい写真の傍らに、見るも醜悪な jpeg 映像が、はたまたコンピュータによって初めて生み出される美しい数学や宇宙の映像が、無造作に並列されるこの展覧会は、「写真愛好家」を苛立たせ、怒らせさえするだろう。写真としての魅力を求めるなら、たとえば『i-D』誌などで活躍し後にアート・シーンでも認められるようになったヴォルフガング・ティルマンス(2015年に大阪の国立国際美術館で展覧会があった)の方がいいかもしれない。ついでにティルマンスとの比較で言うなら、ベッヒャー夫妻の弟子たちが次々にスター写真家になる、この一種のアカデミズムには多少とも抵抗を感じるし、その一人であるルフの作品コンセプトにもいかにもアート・スクールの優等生らしい計算を感じる。だが、逆に言えば、ルフは、過去の写真家たち、あるいは同時代のティルマンスのように、すぐれたセンスだけを頼りとして、あるいは美しい、あるいはアクチュアルな写真が撮れるとは、もはや信じていない。美しい画像であれ醜い画像であれ、ありとあらゆる画像がディジタル・データに還元されてインターネットを飛び交う写真以後の現実を馬鹿正直に直視し、その現実と地続きのところに自分の作品世界を構築しているのだ。それは、観客を魅了するかわりに、この現実を考えるための多種多様な示唆を与えてくれるだろう。
なお、コレクション展にも、ルフの引用するブロスフェルトからルフ当人まで、写真が生きていた時代の作品群が展示されているので、見落とさぬよう!
浅田彰(あさだ・あきら)
批評家。京都大学経済学部卒業。京都大学経済研究所・准教授を経て、京都造形芸術大学大学院長就任。1983年、『構造と力』(勁草書房)を発表し、翌年の『逃走論』(筑摩書房)で提示した「スキゾ/パラノ」のパラダイムとともに、「浅田彰現象」とも呼ばれる「ニューアカデミズム・ブーム」を生んだ。その後、哲学・思想史のみならず、美術、建築、音楽、舞踊、映画、文学ほか多種多様な分野において批評活動を展開。著書に『構造と力』、『逃走論』のほか、『ヘルメスの音楽』(筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、『20世紀文化の臨界』(青土社)など。
批評家。京都大学経済学部卒業。京都大学経済研究所・准教授を経て、京都造形芸術大学大学院長就任。1983年、『構造と力』(勁草書房)を発表し、翌年の『逃走論』(筑摩書房)で提示した「スキゾ/パラノ」のパラダイムとともに、「浅田彰現象」とも呼ばれる「ニューアカデミズム・ブーム」を生んだ。その後、哲学・思想史のみならず、美術、建築、音楽、舞踊、映画、文学ほか多種多様な分野において批評活動を展開。著書に『構造と力』、『逃走論』のほか、『ヘルメスの音楽』(筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、『20世紀文化の臨界』(青土社)など。