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タイポロジーの更新:
トーマス・ルフとベッヒャーシューレ
深井佐和子
現代ドイツが生んだ、世界で最も重要な写真家の一人であるトーマス・ルフの日本初の回顧展が東京国立近代美術館で開催されることとなり、2013年に国立新美術館で開催され大きな話題を呼んだ「アンドレアス・グルスキー展」に続き、同じベッヒャー派のドイツ現代写真家による展覧会としても注目を集めている。ルフの作品を読み解く上で、ベッヒャーシューレとルフとの関係、そして現在へと続くその影響について見てみたい。
写真を学ぶ、または写真に関心を持ってその短く豊かな歴史を覗いてみた者なら誰でも突き当たる20世紀の重要なムーブメントの一つがベッヒャーシューレ(ベッヒャー派)である。ベッヒャーシューレの教育はデュッセルドルフ芸術アカデミー(Kunstakademie Düsseldorf))を舞台に1976〜1996年の20年間に渡って、ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻により行われた。この美術大学は西洋美術史に大きな影響を与えてきた名門であり、過去の教師陣にはヨーゼフ・ボイスやゲルハルト・リヒターらが名を連ね、現在でもアート学科ではピーター・ドイグやエリザベス・ペイトンが教鞭を揮い、写真学科の教授はクリストファー・ウィリアムズが務めている。奇しくもベッヒャー夫妻が教壇に立った70年代当時、ドイツでは「アートとしての写真」ブームが起こっていた。ここで言う写真ブームとは、撮影行為だけではなくギャラリー、美術館、オークションハウスの整備等、アーティストの社会的位置の定義を含むインフラ整備が行われていたのである(日本よりずっと早い)。同時にドイツのアート界を席巻していた議論は、ジョン・シャーカフスキー主導のもとすっかり現代写真をリードしていたアメリカに対抗心を燃やしながらも、「そもそも写真は芸術か否か」というものだった。そしてその当時いち早く「アートとしての写真」というステートメントにより国際展等で評価を確固たるものにしたのが、ベッヒャー夫妻だったのである。後に「ベッヒャー派」として名を馳せることになる当時の受講生達は、アンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトゥルート、カンディダ・ヘーファー等。そしてもちろん、トーマス・ルフ。ルフは1977年から1985年の間、デュッセルドルフ芸術アカデミー写真学科にて、ベッヒャー夫妻のもと写真を学んだ。
現代写真の始まりとも時に評される、ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻がデュッセルドルフで施したタイポロジー(類型学)的表現という教育。想像するに、無音の暗室で作られる巨大なプリントや、蛍光灯の眩しい部屋の卓上にグリッド状に並べられた分厚い印画紙の周りで、少人数で淡々と行われていたであろうこの授業は、強力なスクール(派)としての特異性を生み出し、一つの表現上の方法論にすぎないはずが、それを超越して一つの写真の倫理のようなものを作り上げたと言っても過言ではない。ベッヒャー夫妻は写真メディアの特性を巧みに活かして「アートしての写真」をプレゼンテーションする方法を徹底的に考えること、を学生に教え込んだ。
その後1990年代に入り、デジタル写真の台頭により「写真」そのものの概念の再考が求められる。ここで、デジタルへのリアクションを含め、ベッヒャーシューレの作家達が様々な歩みを始める。例えばグルスキーは巨大なサイズの写真をタブロー的に展示することで現代社会の様相を批判的に描写しながら写真のスペクタクル性を一貫して追求し、ルフは1989年には天文台のアーカイブから入手したネガを用いたシリーズ〈Sterne〉を発表するなどイメージ流通上に存在する写真を素材として使用し始める。撮影者不在の写真を自らの作品として発表することにより、現在の社会に見られるアノニマス・イメージの洪水と作者性の無効化を予言していたと言える。
現代写真の始まりとも時に評される、ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻がデュッセルドルフで施したタイポロジー(類型学)的表現という教育。想像するに、無音の暗室で作られる巨大なプリントや、蛍光灯の眩しい部屋の卓上にグリッド状に並べられた分厚い印画紙の周りで、少人数で淡々と行われていたであろうこの授業は、強力なスクール(派)としての特異性を生み出し、一つの表現上の方法論にすぎないはずが、それを超越して一つの写真の倫理のようなものを作り上げたと言っても過言ではない。ベッヒャー夫妻は写真メディアの特性を巧みに活かして「アートしての写真」をプレゼンテーションする方法を徹底的に考えること、を学生に教え込んだ。
その後1990年代に入り、デジタル写真の台頭により「写真」そのものの概念の再考が求められる。ここで、デジタルへのリアクションを含め、ベッヒャーシューレの作家達が様々な歩みを始める。例えばグルスキーは巨大なサイズの写真をタブロー的に展示することで現代社会の様相を批判的に描写しながら写真のスペクタクル性を一貫して追求し、ルフは1989年には天文台のアーカイブから入手したネガを用いたシリーズ〈Sterne〉を発表するなどイメージ流通上に存在する写真を素材として使用し始める。撮影者不在の写真を自らの作品として発表することにより、現在の社会に見られるアノニマス・イメージの洪水と作者性の無効化を予言していたと言える。
時代は変わって21世紀もだいぶ経ち、気付いたら2020年代も見えてきた現在、「グローバル化」や「インターネットの普及」という言葉すらも古臭く感じられ、東京を始めとした世界の大都市達はとにかく均質化の一途をたどる。Webの中も外も等しく現実化して、まるごと一つのリアリティになった現在において、ルフとはどのような存在なのか。
ベッヒャーシューレに関して言えば、20世紀に存在した「スクール写真」という枠組み自体が現代では無効なのは言うまでもない。学生のグラウンドは当然アカデミアだけではないし、情報ソースもグローバル化、マルチレイヤー化している。アカデミーの枠組自体が解体したことに加えて、現代におけるアーティストの生態自体が既にWeb化している。ポートフォリオはWebサイトで公開され、作品画像はSNSで流通し、過去のようにアーティストが専属ギャラリーを通してのみ作品を流通させるという形態はなくなった。ここでアーティストには社会性と「Web脳」のようなものが求められる。その上銀塩写真は実質的に死に絶え、デジタルに対する嫌悪感など持っていられないほど、制作からアーカイブまでのどこかの段階でほとんどの作家がデジタルプロセスを使用する。そのような状況に置いて20世紀ドイツ写真の主流であった「写真家=マイスター(職人)」という姿はもう殆ど残っていないと言っても良いだろう。しかしその後もルフは静かに、巧みに自らを更新し続けている。ルフの巧みな点はテクノロジーとタイポロジーの接続点を早い段階で見つけ、旧来のタイポロジーの延命のためのテクノロジーではない、という点に意識的だったからだと思う。つまりルフは自らの作品という新たなタイポロジーを生み出すことで鮮やかな延命処置を自らに施した。
ベッヒャーシューレに関して言えば、20世紀に存在した「スクール写真」という枠組み自体が現代では無効なのは言うまでもない。学生のグラウンドは当然アカデミアだけではないし、情報ソースもグローバル化、マルチレイヤー化している。アカデミーの枠組自体が解体したことに加えて、現代におけるアーティストの生態自体が既にWeb化している。ポートフォリオはWebサイトで公開され、作品画像はSNSで流通し、過去のようにアーティストが専属ギャラリーを通してのみ作品を流通させるという形態はなくなった。ここでアーティストには社会性と「Web脳」のようなものが求められる。その上銀塩写真は実質的に死に絶え、デジタルに対する嫌悪感など持っていられないほど、制作からアーカイブまでのどこかの段階でほとんどの作家がデジタルプロセスを使用する。そのような状況に置いて20世紀ドイツ写真の主流であった「写真家=マイスター(職人)」という姿はもう殆ど残っていないと言っても良いだろう。しかしその後もルフは静かに、巧みに自らを更新し続けている。ルフの巧みな点はテクノロジーとタイポロジーの接続点を早い段階で見つけ、旧来のタイポロジーの延命のためのテクノロジーではない、という点に意識的だったからだと思う。つまりルフは自らの作品という新たなタイポロジーを生み出すことで鮮やかな延命処置を自らに施した。
シャーロット・コットンによる最新作『Photography is Magic』(Aperture, 2015)(日本版『写真は魔術』 光村推古書院、2015)では、主に2010年代に活躍する81組のアーティストの作品とステートメントを見ることが出来るが、この中でほとんどのアーティストが「メディアとしての写真、それを用いたアート」ということについて語っている。イメージの流通、作者性のゆらぎ等、ルフが1990年代初頭に作品を通して投げかけた問い、が今現在もメディアの変遷に沿う形で扱われ続けている。
2000年〜2006年までデュッセルドルフ芸術アカデミーでかつてベッヒャー夫妻が立った教壇で教授を務めたルフだが、その後もナタリー・チェック等優秀な学生が作家として活躍している。また遠く離れた日本でも、小林健太、川島崇志、加納俊介、藤原聡志等、現在活躍する若手日本人作家のインタビューに度々ルフの名前を見つけ、その多大な影響を見ることができる。我々00〜10年代の写真に関わる世代にとっての現代ドイツ写真といえば、2004年に東京オペラシティで開催された「ヴォルフガング・ティルマンス展」と、続く2005年に開催された「ドイツ写真の現在」(東京国立近代美術館)であり、そのインパクトは相当なものだった。これら展示にルフは含まれていなかったが、それによりドイツ写真というものへの一定の注目と尊敬がこの世代にあり、また前述のシャーロット・コットンによる著作『Photograph as contemporary art』(Thames and Hudson, 2004) (日本版『現代写真論』 晶文社、2010)によりルフを知ったという人も多く、小林健太 はライアン・マッギンリーらと並列して「カッコいいと思った」とかつてインタビューで語っている。彼らが引かれるのはルフのメディアへのアプローチとその独自のスタイルが持つ自由さのようだ。
2000年〜2006年までデュッセルドルフ芸術アカデミーでかつてベッヒャー夫妻が立った教壇で教授を務めたルフだが、その後もナタリー・チェック等優秀な学生が作家として活躍している。また遠く離れた日本でも、小林健太、川島崇志、加納俊介、藤原聡志等、現在活躍する若手日本人作家のインタビューに度々ルフの名前を見つけ、その多大な影響を見ることができる。我々00〜10年代の写真に関わる世代にとっての現代ドイツ写真といえば、2004年に東京オペラシティで開催された「ヴォルフガング・ティルマンス展」と、続く2005年に開催された「ドイツ写真の現在」(東京国立近代美術館)であり、そのインパクトは相当なものだった。これら展示にルフは含まれていなかったが、それによりドイツ写真というものへの一定の注目と尊敬がこの世代にあり、また前述のシャーロット・コットンによる著作『Photograph as contemporary art』(Thames and Hudson, 2004) (日本版『現代写真論』 晶文社、2010)によりルフを知ったという人も多く、小林健太 はライアン・マッギンリーらと並列して「カッコいいと思った」とかつてインタビューで語っている。彼らが引かれるのはルフのメディアへのアプローチとその独自のスタイルが持つ自由さのようだ。
ルフはある時講演でこのように振り返っている。
「ある日ベッヒャーは私に言いました、写真を使って制作を続けたいならメディアについて考え続けなければいけない、そしてメディアについての考察は、必ず作品に反映しなさい、と。」(2010年2月12日、Aperture Galleryでの講演)
「ある日ベッヒャーは私に言いました、写真を使って制作を続けたいならメディアについて考え続けなければいけない、そしてメディアについての考察は、必ず作品に反映しなさい、と。」(2010年2月12日、Aperture Galleryでの講演)
タイポロジーではなく今現在進行形のメディアの形について常に考察を続けることで新しい作品を生み出し、それによって写真の既成概念を更新し続けるルフは、コンセプチュアル・アーティストと呼ぶにふさわしい。そしてそれは我々の日常の「感覚」と常に繋がっている。当初からイメージの流通に高い関心を示していたルフが〈jpeg〉や〈cassina〉で試みたことは、現在になってみれば、昨日なかった場所に突然スタバが出来て、何があったか思い出せない、もしくはキオスクのおばちゃんからではなくモニター表示された自動販売機に現金を入れて“ほっとする”缶コーヒーを買う、そのような我々の社会の液体のような電子化や流動性とすごく近い場所にある。そういった予言を続けているのがルフの作品であり、だからこそ毎回ルフの新作について知る度に、独特の興奮と緊張感を味わうのである。